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第31回(2008.10.18)和の会

裾野市より富士をのぞむ

(昇華することで、人は最終的に神になれるのでしょうか)

さにあらず。人は昇華し、高まれど、人の御霊は神ならず。いかに清まり、高まれど、人の昇華に終わりなければ。

そも定めなり。仕組みなり。人の魂、霊魂は、必ず汚れを繰り返しなん。
いかに近づき、清らかなるとも、汚れはつかん。曇りて濁らん。
神の御心、適うよう、浄め高めて修行積み、神の心に適いなば、その魂は昇華して、人の御霊を導くみ役。
なれど、神とは異なりて、その導きの御霊となりても、同じく修行は続きゆくなり。
人の御霊は分かたれし、神の御霊の一部なり。なれど神から離れし後には、汚れをつけて、積みを積む。
なれば修行は終わらぬ定め。いかに尊き御霊といえど、生きて生ある胃日の限り、人には執着、欲望あらん。
この世に生まれて、肉体持ちて、生の喜び知りぬる者なら、少しの我欲もなきことあらず。
必ず己の我が芽生え、人と比べる虚栄の心、人より勝らん支配せんとの、名誉や権力望むもの。
なれば人は、限りなき 命の中に、無限の我執、迷妄深めて生きるもの。
なれば死にても、執着消えず。あの世の修行を苦しみ耐えなん。
さにて許され、肉体持ちて、この世に下りて、自由とならば、再び我執を 強め、深めん。
さなる生死の繰り返しなれば、修行も終わらず。昇華も果たせず。生きて肉体ある故に、人は執着、我欲に迷わん。
なれど死にても、執着は、消すに消す得ぬ、強きもの。なれば人は永遠に、神とはなれず。適わざる。
人の願いは、生きること。生きて執着深めつつ、己の精進努力にて、汚れを浄め、高めゆくこと。
なれど神とは異なるものなれ、謙虚に生きて感謝すべし。
神とは本来、我もなくて、ただに人の幸せのみを、願うものなり。喜ぶものなり。
なれど一度権力持ちて、他の神々との争いあらば、神といえども我も生まれ、この世の勢力伸ばさんと、
互いに戦い、いがみ合い。なれどそもまた治まりて、今は平穏、安泰なり。

さなる神世のもめ事も、神の世界に生じぬれど、多くの神々神霊たちは、我もなき尊き方々なれば、人も倣いて、
精進すべし。神の心に近づかんとせよ。

(人は肉体あるが故に執着を持つのでしょうか。想念だけであれば、執着や我は生じないのでしょうか)

さにあらず。肉体持たぬ霊魂のみにも、想念それぞれ、執着あらん。
見えぬ世界の次元の中にも、それぞれ執着、汚れはあらん。肉体なくとも魂のみの、いさかい 争い、闘いあらん。
それは人には分かり得ぬもの。肉体なき世の執着は。
なれど次元は異なりても、低次の闘い、高次の争い。執着迷妄、限りなし。なれば人は、慢心すなよ。
己一人は異なると、思う心に、強き我潜まん。いずれも同じ。異ならず、神の目からは、全てが同じ。
肉体持ちて、この世を生きる、短き生涯、大差なからん。
なれば人は比べることなく、ただに感謝を捧げるべけれ。人それぞれに賜りし、境遇、運命、神のご意図に。
人間心に解き得ぬほどの、神の匠に、敬虔なれよ。
ただに感謝し、高みを目指せよ。
いくら禊ぎて、高めんとても、永久に届かず。たどり着かず。なれどそもまた 幸いならずや。
喜びあるも、苦あればなり。
幸せ想うも、困難なれば。
なれば人は神になり得ず。
永久に己の執着と闘う定めの魂なれど、そこそに神の慈愛を見よや。

この世に下ろされ、生を生き、神の導き、ことばに従う。そにて喜び、悲しみを、人の心を、賜りし恩。
ただの動物植物には,知り得ぬ高き、幸いならずや。

さにて終わる。ただに感謝を。それのみ行え。己の生に、感謝を活かせよ。
さにて

 随神(かんながら)について

神から人へ、人から神へ
神から人への伝えも終わり、今は一人の人間として意志持ち生きる人として、神の答えに頼らずに、自ら考え、行なえよ。
神の答えは正解になし。多くの方法、選択し、そこから選ぶは本人のみ。

神のご意志に沿いながら、尚も己の意志を尊び、神のご意図に外れぬ生き方。
そは人の自らが長き年月、時間をかけて、多くの経験、失敗を経て、やがては悟り、到達するもの。
なれば人は今ある環境、人間関係、境遇にて、最善努力を尽くすのみ。
そこそが真の随神。迷いも大切。疑問も必要。
神のせいにし、考えもせず、成り行き任せに流されるになし。
随神とは、努力すること。さらなる進歩 向上めざし、
確かな約束、保証のなくとも、ただに己の信ずる道を、結果の責も負う覚悟にて、神を信じて歩むこと。
神は教えず、導かず。人の失敗、避けさせず。
人お魂、霊性の,進化に役立つことならば、見守るのみにて、手を差し伸べず。
神の慈愛の大きさを、深さを思えよ。広さを忍べよ。
神の願いを知る者ならば、答えは自ずと明らかならずや。
絶えず省み、振り返り、己の非あらば、自ら気付けよ。
人は神に守らるるとも、今生世界に生まれしは、自ら御魂を鍛えるためなり。

神に頼りて、甘えるなかれ。神の慈愛は厳しくもあり。
神の慈愛は尊く、畏く、人には測れぬ、無限の大きさ。
そに守られて生きるこの世を、思わば 何を恐るるや。
神の慈愛に溢れしこの世に、命を得しこそ 尊き縁なり。
一人一人が独りになく、どこまでつながる縁なれば、その縁こそを大切に、
地上人類、自然万物、銀河宇宙と一体なるを。
人の浅くて狭き目は、今しか見えず、自分のみ。
随神なる生を生きるは、先ずは己の我から離れて、己の愚かさ、小ささを、神の視点で捉え直せよ。
随神なる生き方は一つにあらず、人それぞれに、
銘々 備えし感性、知性、理性、徳性、霊性を自ら磨く生き方なれば。
無駄に思える努力も必要。地道に歩む遠回りこそ、豊かな実りをもたらさん。
結果成果に目を眩まされ、徒労を厭うは嘆かわし。
辛抱、忍耐、我慢の長さは、人の心を鍛える素なり。
さにて身に付く強さこそ、随神なる道へと続かん。

さにて本日、随神とは己の意志、自ら考え努力するこそ、真の随神なるを説き示したり。
これから後の参考とせよ。さにて

要約 2008.10.22  ひふみともこ

「神に近づくために・随神」


人の魂は神から、或いは宇宙から分けられたものです。ですから本来、人は神と同じ魂をもっているのです。しかし、人は肉体を持ち、欲望を持つと、次第に「自分」と「他人」を分けて考えるようになります。それが我利我欲や執着の素になります。この世に肉体を持って生まれたのは、そうした執着を少しでも浄化して、本来の純粋な魂に戻り、宇宙の進化とともに御魂を向上させて、神から分けられた状態に戻すためです。全ての魂・命・肉体は、何億年もの昔から現在まで、そして未来にも つながっているのです。そのことに気づき、全ての命の繁栄と平和を祈る心が大切です。そして今の自分を精一杯生きることが、神のご意図に適う生き方であることに気づくことこそ随神の生き方といえるでしょう。



第31回和の会を終えて 

事務局からのお知らせです。
今回の勉強会は、(昇華することで、人は最終的には神になれるのでしょうか)また、後半随神(かんながら)について学びました。
 沢山の意見や体験談もでて皆さんそれぞれの思いで学びが進んでいるように思いました。
 今回も3名の新しい方の参加があり、それぞれの経験をお話していただいて、直会も話が弾みました。
 今回は、生老病死の言葉から  
     怒りは無知
     泣くは修行
     笑いは悟り についてのお話でした。また、人生の四つの期 学生期、家住期、林住期、遁世期についても意見が交換されました。
いずれも、感謝の言霊が沢山でてこころ暖まる勉強会でした。

事務局への連絡はメールまたはファックスでお願いいたします。(留守番電話にもなります。)

横浜和の会について

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