第43回(2009.11.15)和の会
「罪の償いについて」
(罪の償いを、どうすべきでしょうか。例えば、人を殺した人は、現世では何を以て償うべきでしょうか。また、死刑を始めとする、人が人を罰することを、神はお許しになるでしょうか)
人の世界のいさかい、争い、いつの世にても なくならぬもの。
なれどさりとて、人の常、人の本能、本性ならず。人とは本来 神に近く、尊き霊性持ちしもの。
なれど曇りて、汚れぬれば、禊ぎも苦難も必要となる。
人の犯せし罪科(つみとが)は、本来ならば人の世にて、人の力で償うべきもの。
なれど適わず、償い切れぬは、あの世の行とし、残し持ち来る。
なれば人の世、現世での、なすべき償い、購い(あがない)とは、罪を犯して傷つけし、被害者のために、祈ること。
謝り、悔い、詫び、悟ること。
なれど帰らぬ人ならば、残され苦しむ家族に詫びて、罪の重さと、何故なせしか、そを省みて、謙虚に見つめ、
さらなる精進、誓うこと。
なれどさにては報われぬ。残りし家族の悲嘆、愁嘆。
何故殺され、傷つけられ、かくなる憎き犯人を、許し生かして、受け入れるのか。
家族の苦悩懊悩こそが、神の与えし禊ぎなり。なれど気付かず。悟り得ず。
己の被害の悔しさのみにて、執着苦悶、憎悪怨恨。かくなる地獄に落とされぬること。。
その意味読み解く救いのなくば、加害者よりも被害者こそが、あの世に戻りて地獄に堕ちなん。
神の仕組みし罪にはあらず。その被害者の招きし罪なり。加害者とても同じこと。
双方共に欠けたる者なれ、罪は互いの結果なり。なれど人が人を罰する、そもまた神のご意図に反する。
神は許さず、死刑極刑。暴力、体罰、そもまた同じ。人の体も神の授けし、慈愛の表れ、恵みなり。そを傷めるは神への冒涜、
反逆、不遜の(ふそん)行いならずや。神の許せし人への罰は、罪を購う(あがなう)ことにはあらず。
犯せし罪の原因なるを、よく振り返り、正してゆくこと。
結果の罪が、全てにあらず。さらに大きな基盤から、直せ正せの意図なれば。
(被害者にも原因があるから、双方共に反省し、相手を恨んではいけないということですか)
さなり。なれど誤り、あやまつなかれ。双方共に原因なれど、その罪許しし神のご意図を。
神の禊ぎは、禊がれし者の、独りの禊ぎにあらざれば。なれば人が人を犯し、罪を作るは、神の警告。
なれば当事者のみになく、周囲の者もそこから学べよ。全てが一つの調和にあれば、ただ独りのみを禊ぐにあらず。
(人から恨まれることなどしたこともない善人が、ときに殺されたり、病気になったり、事故に遭ったりします。それも、禊ぎであり、その当事者に原因があり、被害者当人の招いた結果なのでしょうか)
さなり。なれどそもまた誤解されなん。独りの禊ぎにあらざれば、全ての者への禊ぎなり。
いかなる善人聖人とても、必ず日々に罪を積み、人を傷つけ、生きてゆくもの。
なれば日々に神に謝り、神への帰依と感謝を高めよ。なれば善人、悪人とても、同じ神の子、光を与えん。
(実際には、罪を犯すまでの経緯は複雑で、個人により様々です。犯罪の原因も昔とずいぶん変わってきました。中には、時代の流れの中で、罪を犯す人もいると思います。そうした人たちは、時代の中の犠牲者なのではないでしょうか。また、犯罪を防ぎ、減らしてゆくにはどうすればよいでしょうか。或は、犯罪も神の御心、禊ぎなのだから、減らす必要はなく、減らすこと自体不可能ということでしょうか)
さにあらず。人一人一人の努力は尊く、神の望まる営みならん。
神の嫌わる現代の、地球を覆う風潮は、己中心、自己中心。その最たるものが戦争なり。
さにて今の世、一つ一つの、犯罪、そもまた戦争ならずや。
人の作りし原因の、結果を受けるも人間ならば、そを忘れずに問い直し、謙虚に立て替え直しを進めよ。
神は望むぞ、人の全ての、改心悔悟と感謝の高まり。人が心を取り戻すとき、犯罪もまたなくなり絶えなん。
なれど今の世、このままにては、人の心に悟りもあらず。繰り返しなん、罪と冒涜。
神は人へと望むなり。人の救いと、精進を。なればこその禊ぎなり。
罪の中から、気付きてくれよ。何が原因、足らざるかを。人の償い、そもまた同じ。罰金牢獄、人には要らぬ。
真の改悛、そがなくば、人を処刑し、懲役課すとも、何の意味なし、変化なし。
まいて死刑は罪を深めん。人の驕り(おごり)と不遜なり。
償うことは非を認無こと.素直に悔いて、下座する心。
人や時代に責を求むな。己の心の欠陥なれば、早くに気付きて、神に近づけ。
さにて己の罪の深さを、謙虚に恥じて畏るるとき、自ずと神を求めてゆかん。
神の許しを、心の救いを、魂の底より、求めてゆかん。
さなる心の目覚めしときこそ、被害者、加害者、共に救われ、罪の神意を悟りなん。
償い、あがない、本来あり得ず。
あるは神への誠の帰依と、精進望む、それのみなり。
さにて、本日、罪の意味と、償いの法を教えたり。
心の葛藤、煩悶(はんもん)越えよ。生きる尊さ、意味を見つけよ。そこにて神は待ちておられん。解脱の心を、無我の境地を
さにて。
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要約 2009.12.03 ひふみともこ
罪を犯さない人間はいません。法律を犯すことだけが罪なのではなく、人を憎んだり、妬んだりすることも神の前では罪と言えるでしょう。
人は生きていく中で、日々罪を重ねて生きています。だからこそ、日々その罪を禊ぎ、償うことが必要です。
人の世界では裁判などで刑が決まり、その刑に服することが償いとなりますが、宇宙の視点・神の視点からの償いとは、自分の罪を認め、相手に、周囲に、自分に、そして神に謝ること、そして、その罪を何らかの気づきの機会とすることです。
一人の罪は決して一人の罪ではありません。周囲がそこから学び、人類全体の進化に寄与させていくことが重要です。また、そうした償いを通して、人は許すことを学んでいきます。
償いと許しこそが、神の願う人の成長、霊性の進化なのではないでしょうか。
第43回和の会を終えて。
事務局からのお知らせです。
今月は「罪の償い」について学びました。
世の中が便利になり、つれて情報が氾濫し、それについていけなくなる人々も多く出るようになり、様々な事件や、自らの命を絶つ悲しい出来事が日常的に起こっています。
命の尊さについて、本当に真剣に学び直さなければいけない時期に来ているのではないかと思います
お疲れさまでした。