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2000年2月29日「執着を取る」について

さても難しく、また易しきことを問うものなり。

我とは己の独占欲、己一人がよかれと願う、おのが中心の現れなれば、先ずは己の幸せのみの、願望欲望、考え捨てよ。

されどそもまた難しく、よきときばかりが続くにあらず。

苦難、困難、危難のときに、いかに他人を優先さすか。最も厳しき状況なるらん。

人には生まれて死ぬまでに、なさねばならぬ霊行のあり。

人の多くは、そにも気付かず、目先の利益や富のみを、人生最大の目的となす。

さなる心に精進難し(かたし)。我を取る暁は、さらにも難し(むつかし)。

なれど一度(ひとたび)、己の霊行、生賜りし 意味を悟らば、霊行以外の何事も、行なう易く、困難あらず。

人の努力と辛抱あらば、およそのことは、全て叶わん。

なれど霊行、それのみは、人の一人の力には、行う難く(かたく)、実現難し(がたし)。

なれど神にも、他人にも、力を仰ぎて、己も捧げて、ようやく一つの霊行となる。

さなる霊行積み重ぬれば、必ず自ずと我は取れゆかん。

なればこそ、今ある人の大方は、霊行さえも知らざる不幸よ。

知りてもなさぬが、人の常。

人の弱さを、神も十二分に、知りておられば無理を求めず、人それぞれに見合いし行を、段階つけて与えらる。

なれば先ずは、霊行を、生ある意味を知るが始めよ。

この書記読みし者ならば、必ず神とのご縁も深く、恐るることなく、行を積むべし。

無償の精進、それのみにて、我も執着も、離れてゆきなん。

執着、我欲は、本来なければ、なきと思いしその瞬間に、消えて離るる、煙の如し。

執着取らん、我を無くさん。思えば思う、それほどに、かえりて強まり、離れずなるなり。

心の自由を、思い描けよ。

心を遊ばせ、空(くう)となれ。

恐れず、求めず、惜しまず、止まらず。

ただ自らを自然摂理と、一体となりて生きるがよけれ。

己の存在すら忘れ、今ある宇宙と、一つとなりて、己の内なる宇宙に帰れよ。

宇宙の魂(たま)と、己の魂(たま9とは、一つの魂と気付くべし。

さにて己の内なる宇宙は、目覚めて時から 開放されん。

無限の時に身を任せ、大なる宇宙と 共に生きなん。

さなる時こそ、我は既になく,執着一つも残らずなりなん。

先ずは始めに、霊行を。

その後求めよ、無我の境地を。

いずれも一つの精進要す。迷い、悩みもあるらめど、過ぎたる苦悩は、執着なれば、求めぬ心を育みてみよ。

まだまだあれど、方法は、自ら探すも修行となるらん。

さなる努力と曲折を、神は愛しく見守らん。

心安けく、おおらかに、神の波長を 甦らせよ。

さにて、終わらん。

後にも聞けよ、人のため。

人の苦しみ迷いを救わん。

さにて

  • 要約   2012.01. ひふみともこ

よく執着を取れといいますが、そもそも執着とは何でしょうか。
お金に対する執着、持ち物に対する執着、地位や名誉に対する執着、人に対する執着、さまざまです。
そして、そうした執着によって、人は苦しんだり悩んだり、人を憎んだり妬んだりします。
できればそうした執着から解放されたいというのは、全ての人に共通でしょう。

ではどうしたら、執着から来る苦しみから逃れられるでしょうか。
また、苦しみの基になっている執着そのものを消すことができるでしょうか。
1つは、執着というものは全て、自分の頭の中で創りだした妄想だと気づくことです。
ただ、気づいたら、たちどころに執着が消えるわけではありません。
一時的には消えたように思えても、繰り返し繰り返し、心の中にモヤモヤと甦って来るものでしょう。
もっとも、しつこいからこそ執着というのでしょうが。
そのしつこい執着を消すためには、結局は「祈り」しかないと思うこのごろです。

1日に1度でいい、短くていい、初めは真剣でなくてもいい、対象も特定の神仏でなくてもいいでしょう。
ただ、本当に素直になれる対象を思って祈ること。
でもここでまた問題になるのが、そうした対象が存在しない場合です。こればかりは、どうしようもないのかもしれません。

しかし、そうした心の営みは、次第に育まれていくものです。
根気強く、粘り強く、先ずは自分の中に「謙虚な信仰心が生まれますように」と祈ってみてはいかがでしょうか。

第67回 和の会を終えて。


事務局からのお知らせです。
今月は「執着を取ること」について学びました。

執着とは、私たちが勝手に作り出したもので、そこの状況から目が離れなくなる状態を執着というのであって、本来はないものなんだそうです。
あるがままを受け止めることが大事だと学びました。

ひふみ先生からは自然と手を合わせられることを習慣化させたら如何でしょう。お願いやご利益と言ったものではなく、自然に対して無の気持ちで手を合わせ、瞑想することで、祈りが変わることで自分が変わっていくそうです。

また、小池龍之介氏(僧侶)の著書「3.11後の世界の心の守り方」の紹介もございました。
3.11をなげくだけではなく、あの震災を淡々と受け止めることを著したご本だそうです。

後段では、1999年10月15日の「神からひとへ」の紹介もございました。

ここでは、私たちは心の中に神様の居場所を設ける=霊性を目覚めさせることが大事。
執着や我はスクリーンに映し出される映像であり、魂はスクリーンそのものだと思えばよいとのこと。
人にとっての生涯の修行とは常に神を忘れず、日々の行いを淡々と受け止める繰り返しだそうです。
なにげないこと、単純なことで、たとえば咀嚼や呼吸を意識しながら繰り返すことで集中力が高まり、それがやすらぎや幸福感に、つながっていくということも学びました。
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本年の和の会も無事、終了いたしました。
師走ともなり慌ただしい世相は相変わらずです。

来年第1回は1月28日(土)です。


おつかれさまでした。