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神誥記
2000年5月18日「この世の行としてなすべきこと」について

(この世の行については、神への感謝を深めること、人の救いをお手伝いすること、神様のご存在を話してさしあげること、の他に、何をすればよいのでしょうか。今、「神」と言うだけで、肩身の狭い想いをせねばなりません。それでも敢えて、声を大にして、偏見と闘ってでも、神様の書記として、人に広げてゆくべきでしょうか)

さても儚(はかな)き人生ならずや。浮かんで消える泡沫(うたかた)の如(ごと)。何もなせずに果てぬる命よ。

なればせめても神のため、己のなせる限りを懸けて、神に仕える幸を喜べ。

己を守ることもよし。今のこの世は、生き難き世なり。なれど少しの勇気と献身。

そをもち神の手伝い望まば、神は喜び愛(め)で使いなん。

今のこの世にある魂の、多くは使えず。お役に立たぬ。神の嘆きを知りぬるならば、そこそを喜び、感謝すべし。

己独りの精進になし。全ての過去のご縁もあらん。今世限りの縁ならば、何故(なにゆえ)かくなる奇しき出会いを、賜り授かる意味ありや。

神とのご縁を尊べよ。神との出会いを疎かにすな。己一人の努力にあらず。

そなたを導く神霊方の、ありがたき仕組みを、素直に受けよ。理屈は要らぬ。理解も不要。

ただに任せよ。束縛解けよ。なれば自ずと神への奉仕も、自然なままに運ばれ進まん。

人間心の偽善、正義は、ときにはあやまち、お役に立たず。かえりて妨げ、邪魔となるのみ。

なれば素直に従えよ。神の喜ぶことのみなせよ。

人の間の噂、陰口。そを気にすなよ。煩(わずら)うなかれ。なれど人の世、浮き世のしがらみ。強く囚われ、拘るなかれ。

人の目、耳も、やがては飽きて、忘れてゆかん。過ぎ去りなん。つまらぬことに関わるなかれ。

人の尺度の忠告助言。多くは勝手の、その場限りよ。

なれば己を見失わず、目標遥かに見定めて、今日のこの日を大切にせよ。

世間の荒波、もまるるなかれ。苦労と努力は別のこと。ただ徒(いたずら)に、苦労を重ね度、心の富は増しもせず。

かえりて光を曇らせなん。執着汚れも貯まり増しなん。人の低次の悩み悲しみ。神には救えぬ苦悩あり。

自ら神を求めぬ限りは、神の光も照らし得ず。

なれば悩める人の心を、神の光に向かせんと、ことばをかけて慰めよ。癒し、和ませ、導けよ。

そのみで救われ、目覚まさん。神との約束思い出さん。己のみ役を、生の意味を。

さなりて人は甦り、己の奥の神と出会い、ただしき生を生きるのみ。

それまでのこと、人の救いは。網の手伝い、霊行は

己の生を懸けるといえど、犠牲となるを、神は望まず。それにて十分、お役に立たん。神の手伝い充分果さん。

今のこの世の荒れぬれば、容易に神を口には出せぬ。さなる時なり。時代なり。物質文明発達しすぎ、神を忘れし愚かな時よ。

なれど次には、必ず気付かん。己の愚昧8ぐまい)を。浅薄(せんばく)を。

恥じて悔いなん。神に詫びん。そして許され、救われなん。

人の大なる救いには、厳しき禊ぎも必要なるらん。そを耐え忍べよ乗り越えよ。

なれど待つのみ、何もせぬは、少しの精進、禊ぎとならず。神の手伝い求めてこそは、神の許しも恵みも得なん。

時代を築き、次の世のため、今ある生を神に捧げよ。さにて神は喜ばれ、新たなみ役、恵みも与えん。

神のお役に立つ運命を、さらに感謝し、敬虔なれよ。望めど望めぬ、み役ならずや。気付かず果てぬる命も多し。

己の先祖も救われなん。子孫の霊行、精進により。なれば一人の命にあらず。霊行ならず。精進ならず。

今のこの世に生を受け、生かさる者は、責任重し。勝手の欲望、願望のみにて、終わりぬるこそ 恐るべし。

  • 要約   2012.07.21 ひふみともこ

 今の世の中を見ていると、人は「恥じる」ということを忘れてしまったかのように思えます。
日本人は元来、卑怯なことを殊更嫌い、「恥じ」てきました。
それは決して他人が見ているからとか、世間体があるといった浅薄なものではありません。
そこには2つの基準があると思います。1つは、人間を越えた大なるものに対してです。
お天道様、ご先祖さまといった見えない存在・力に対して、卑しい行いをしたことを素直に認め、申し訳ないと感じることです。
もう1つの基準は己自身です。
自分が守るべき基準・心の拠り所・誇れる生き方といった基準を持ち、それに照らして、それにもとることをしたときに、恥じたのです。
ところが昨今、そうした基準は殆ど失われてきたように思います。
誰も見ていなければいい、ばれなければいい、ばれそうでも皆でなかったことにすればいい、、、。
皆で口裏を合わせて、あったこともなかったことにする、見なかった振りをする、といったことがまかり通っています。
或いは言葉の使い方で問題の本質をすり替えようとします。
今の自分さえよければ後はどうなってもいいという自分の保身しか考えていません。
そこには「恥じる」という概念は皆無です。
 「正しく生きる」とは、神様の分け御魂として恥じない、神様の分け御魂にふさわしい生き方をすることだと思います。
しかし、「神様」という人間を越えたものへの畏怖や尊敬の念が失われた今、「恥ずかしい」生き方をする人が増える一方なのかもしれません。
戦後教育の弊害を思わずにいられません。

第73回 和の会を終えて。


事務局からのお知らせです。
今月は「この世の行としてなすべき」について学びました。
神様から一二三先生に示されたみ役であったにせよ、わしたち一人一人がどう感じ取るかということではないでしょうか。
人は祈ることで魂が知らず知らずに素直になり、神の想いが伝わりやすくなる、正しい生き方が出来ているかどうか、ということを学びました。

日々、自分の我欲でない祈りをすることで生きる意味や心の姿勢を正すということも学びました。

また「神から人へ1999年10月22日」の項ー己を活かす行、分け御霊にふさわしい生き方をするーも学びました。

8月の和の会はお休みとなります。本年第8回は9月15日(土)です。


おつかれさまでした。