神誥記 2000年5月30日
「自我と我」について
(自我と我は異なるものでしょうか。また、自我の芽生えとは、否定されるべきなのでしょうか)
さにあらず。自我と我とは異なるものなり。
人の生まれて、自我が芽生え、他と己との区別が始まり、己の存在、他の存在、そを知ることは大切なること。
干とん成長発達の、過程の一つ、証しならん。なれば自我のあることは、本来否定すことにはあらず。
なれど自我の強すぎて、己一人の幸願い、他の利を妬(ねた)むは、悪しき自我なり。
自我の正しき成長は、人も己も大切にして、共に栄える幸祈る、共存共栄の姿なり。
なれば人より多くを望まず。人と同じに満足し、人より持たば、人に能え、常に共にあらんと欲す。
さなる尊き自我なれば、なくす必要さらになし。
間違いあやまつ、今の自我よ。他との違いをひけらかし、人より少しの優れたるを、ことさら協調、強要せん。
謙虚の思いは皆無にあれば、己の誤り、不足認めず。かえりて周囲を非難せん。
己の欠けたる自覚のなければ、少しの進歩も向上もなし。さらに堕落し世間を恨み、努力を嫌いて、安逸(あんいつ)貪(むさぼ)る。
感謝の一つも抱くことなく、全てが当然、己中心。やがては嫌われ、疎(うと)まれて、生まれしことさえ、呪(のろ)う傲慢。
神も見離す魂なれど、人の温(ぬく)もり、ことばの癒(いや)し、ときには救いて、心に響かん。
神のあること、生の意味、素直に謙虚に悟りなば、我もなくなりて、昇華せん。
自我の正き導きにより、悪しき我取れて、再生せん。なれば自我も成長し、人の救いと繁栄こそが、己も救わる道と悟らん。
未熟な自我は害悪なれど、正き成長成熟により、いずれは他をも導く自我なれ。
今のこの世にある者たちに、他をも導き得る 魂少なし。いずれも未熟な我ばかりの、謙遜(けんそん)知らぬ、高慢、驕慢(きょうまん)。
いつか地球を滅ぼさん。さなる心の驕(おご)り、高ぶり。
心の素直さ、謙虚さと、感謝のなくば、人の価値なし。
神の恵みを忘れなば、いつか自然を破壊し尽くし、住める地球を自ら壊さん。
危機なることを、緊急なるを、警鐘鳴らせよ。呼びかけよ。愚かに慢心、惰眠(だみん)に耽(ふけ)る、腐りし自我なら要もなし。
残せる者のみ残らばよからん。気付きて手伝う魂(たま)のみ残し、次ぎなる世をも立て直さん。
なれど最期の機会を許せし、神の寛容、慈愛の深さよ。
急げといえども人には分からず。迫れる壊滅(かいめつ)、崩壊の時。人には遠き明日ならん。
なれど幕は落とされぬれば、予告を示して、気付かせんとす。
少しの遅れも、迷いもならぬ。ただに一途の献身を。そえのみ告げるこの日頃。
馴れし油断を、今戒めよ。引き締め、構えて、真のゆとりを。
慌てるばかりが 急ぐにあらず、焦る心で行うは、失敗の素、あやまちの種。
心に余裕のなきときほどに、神の光も教えも忘れ、目先の成果に幻惑(げんわく)されん。
じっくり腰をおちつけて、平常心にて、進めてゆけよ。
正しき自我を育てども、卑しき我執に迷うなよ。迷妄、眩(くら)みて、さらに深めん。己の愚昧、妄執を。
いずれ気付かん、最期のときに。己の我執に囚われしまま、神から離れし、罪の重さを。
我を取り、放たれ、自由となれよ。さなれば自我も解き放たれん。
己の些末(さまつ)な感情感覚、そに拘(こだわ)りて,沈みゆくなよ。
己の低き想念の沼。我に縛られて、溺るなかれよ、苦しきときこそ、思い出せよ。青き天空、神の世界を。
光溢れし空を見上げよ。自ら飛翔す己を思えよ。
さにて。
要約 2012.12.09 ひふみともこ
自我というものは厄介なものです。
自我が強すぎると自分を超えた偉大なるものへの感性を鈍らせるだけでなく、我利我欲・執着、好き嫌い、勝手な妄想、心配、後悔などを生み出す素となります。
しかし、自我がないのも困ります。
赤ちゃんの状態で自他の区別ができないでいては、魂の成長はないでしょう。
棚次正和先生(京都府立医科大学教授)のお話では、祈りとは自我とspiritとの統合だということでした。
しかし、自我が強いと純粋な魂の働きがそこなわれて、その統合を阻むのでしょう。
自我を正しく成長させるためには、利他の心を大きくして、小欲を大欲に変えていくことということでしょうか。
そしてそれは、毎日の欠かさない祈りによって実現していくものだと思います。
棚次先生はこうも仰っています。人間の本性は祈りであると。
呼吸をするように、人は祈るのだそうです。今、物質だけに目を奪われないで、人間の本性を取り戻したいものです。
第77回 和の会を終えて。
事務局からのお知らせです。
冒頭、ひふみ先生より、先月も気仙沼に行かれたお話がございました。同行された小泉さんからのレポート、気仙沼の鈴木さんからは現状の様子についての紹介もありました。
11月30日に大坂で開催された高野山大学主催の講演会「宇宙の摂理への想い」についてのご報告もございました。
平野俊夫先生「いのちと医学」、棚次正和先生「いのち、いやし、いのり」、帯津良一先生「地球の自然治癒力」の講演だったそうです。
棚次先生からは、人間の本性は祈るということであり、呼吸にも3つの次元があるそうです。
体の呼吸ーいわゆる吸ったり吐いたりする呼吸。
心の呼吸ーことばを吐くこと
魂の呼吸−神であるとかの絶対的なものとの交流
肉体には終わりはあっても魂には終わりはなく、魂を癒すのは祈りであり、絶対的なものを認めたり、思いをもつことが第1歩である。
帯津先生からは、全ての人間に自然治癒力があるように、社会にも病院にも地球そのものにもそういった治癒力があるのだが、人間の欲望や想念が地球を覆い尽くしているのだそうです。人間の本性は「悲しみ」であるわけで、悲しみを敬い合うことが治癒力を高めるのだそうです。
「自我と我」については大欲は無欲であり、自我の正しい成長を促すのだそうです。
宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩を例にとってご説明を頂きました。
神から人への1999年10月26日の朗読も行いました。
2012年の横浜和の会は全て終了いたしました。
清冽な気持ちで、新年を皆様が迎えられますように、お祈り申し上げます。
よいお年をお迎え下さい。
おつかれさまでした。