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『神誥記』 2000年6月1日 

「人を愛すること。」
(人を愛するとき、どうしても我というものが入ってしまいます。自分が相手に好かれたいとか、或いは、独占欲のあまり、その人が自分以外の人間に優しくすると嫉妬するとか、その人物のみを考えて、他の人は排除するとか・・・。そうした愛を神様はお許しくださるでしょうか)

欲望、本能、人の根源。そこに本来 我はなけれど、自己と他者の違いを知りて、己の優越、選良意識、そが芽生えぬる時、我は強まらん。

人は本来一人で生きる。孤独の生にはあらざれば、他との調和を重んじて、共存共栄 願うものなり。

なればさらにも浄めてゆかば、必ず人は神に近づき、慈愛の心、寛容の愛、そに目覚めゆくもの、気付くもの。

我の曇りにて気付かざれど、人とは神の愛を持ち、いつでも人を愛せるものなり。なれば人を愛するときに、我の混じりぬるは、改むべし。

己の愛に、我の混じりなば、さなる愛は汚れとなりて、相手も汚し、己も貶(おとし)む。

人を愛すは難しきこと。正しく愛し、正しく尽くせよ。あやまち我欲に迷いなば、かえりて双方、汚れを積まん。

相手の幸せ願うはよからん。なれど幸せ、そをあやまつな。相手に金銭物質与え、物にて顕わす愛は汚れよ。

真の愛とは、相手の心、魂満たす、それのみなれば。

あれば最も明らかな愛は、ことばによりて伝えらるべし。愛の深さは音にも表れ、目にも表れ、顔にも見えん。

なれば饒舌(じょうぜつ)、巧言(こうげん)要らぬ。ただに心と心の還流(かんりゅう)、そにて充分 伝わりゆかん。

我とは本来、己への愛。自己のみよかれの心ならずや。我の入(い)る愛とは、己のためなり。相手の真の幸せよりも、己の満足、自己中心。

相手の迷惑省(かえり)みず、己の偏愛、強制す。

全ては我のなす仕業(しわざ)なり。なれば人は、人を愛すも、安易に考え、あやまつなかれ。

人を愛すは、神の行い。神の行いなせる者のみ、真の愛を顕わせるもの。

神の愛とは公平なり。差別もなくば、偏(かたよ)りもなし。全ての生を等しく愛し、全ての生の救済願う。

なれど愛にも、差異はあり。最も深く強き愛。最も大きく寛き愛。最も高く熱き愛。

愛に違いはなけれども、顕わす愛に、違いあり。人それぞれに見合う愛、神は等しく分けて与えり。

なれば人はそに倣(なら)い、神の愛にも近づくべけれ。人は人とし、人の愛を、正しく顕わし、行うがよし。

家族の愛もまた然り。親子の愛に兄弟の愛。子弟の愛に恋人の愛。愛にも幾つか違いはあらん。

なれどいずれの愛にても、独善の愛に真実はなし。相手に押しつけ、嫌われて、悲惨な終わりを迎えなん。

独善の愛は厳に戒め、宇宙の心で人を愛せよ。

全ては神の子。汚れぬ魂。その本来の 愛に目覚めよ。

幾多の生に出会うも縁なり。その縁を守り、広げてゆけよ。

一人一人の努力と協力。そのみが地球を、宇宙を救わん。

今人に、神は全てを預けたり。人の最期の献身と、努力の姿を、神に示せよ。

必ず宇宙は一人を守り、一人は宇宙を救いてゆかん。一人一人が神と結べよ。

一人が全てを救うにあらず。一人が一人を救うなり。一人一人の帰依の姿が、神の光を強め、高めん。

なれば一人の努力の姿は、千にも万にも価(あたい)せん。一人を侮(あなど)り、軽んずなかれ。一人の重みは、人には量れず。

人の尺度や基準に量れぬ、神の世界の尺度を知れよ。そも適わずば、神を信じよ。ただひたすらに、愚かに信じよ。

無垢なる心の信仰こそが、神にも通じ、人をも変えん。なれば愛とて同じこと。我にて愛する愛は慎み、一途(いちず)に祈れよ、人の幸せ。

陰にて祈る心こそ、尊き愛の始めなり。

なれば相手に露(あらわ)に示し、押しつける愛は、我のみの偽善。よく戒めて、高めてゆけよ。

神の愛とは見返りも、感謝も求めぬ、ただひたすらの帰依。さにて相手が喜ぶ姿を、見守ることにて、満たされなん。

さなる愛こそ、抱きて生きよ。儚(はかな)く短き生ならん。神の愛にも昇華させ、あの世に帰らば、神は祝わん。


横浜和の会(平成26年8月3日) 要約 一二三ともこ
今回は「人を愛すること」についてお話しさせて頂きました。
正直言って照れ臭いテーマです。
でも先週の京都の会で同じテーマでお話したら、参加者の方から、亡くなったご主人からも同じ内容のメッセージが来ることをお聞きし、少々自信というか確信できたので、あえてお話しさせて頂きました。
お話しした内容としては、人間は皆神の分け御魂として本来は調和の心を持っていること、しかし我というものができて、次第に自己中心的になり、本来の御魂の持っている愛が発揮できなくなっているということ、でも、その我を浄めていけば人間の愛は神の愛にも近づくということ・・・。そして神の愛とは無償であり、また公平無私でもあります。
今自分が誰かを愛しているとするなら、その愛は神の愛に近いのか、それとも我の混じった愛なのか、考えてみてくだされば幸いです。

第90回 和の会を終えて。

事務局からのお知らせです。
2014年第3回の和の会は8月3日に開催されました。


8月例会には初めてのご参加者3名様を始め.18名の皆々様が出席下さいました。

我とは、動物にはないのだそうです。本来は私たちの魂のなかにはなかったものが、執着や我というものが人間だけが持っているのだと学びました。魂の成長になるような学びが必要であり、必要であれば病気にもなるのだそうです。

後半は「神から人へ」の中より、1999年11月8日のあるがままの己の真を示すことが大事だということも学びました。
川田薫さんの「人生のクリーニング」というお話を一二三先生からお聞きいたしました。
大変感銘を受けました。
人は「感謝とお詫び」をたえずすることがよいというこを。
はたち頃からのことを振り返り、悪いことをしたこと、嘘を言ったり人を裏切ったことなど、多くの罪を祈りの中で詫びて、神様からお預かりした魂のクリーニングをして、消していくことがとっても大事だということも学びました。
私たちの頭の中では忘れたいることでも、魂は全て記憶しているんだそうです。
私も恥ずべきことは山ほどあり、なんだか救われた気持ちにもなり、クリーニングしてみようと思っております。

次回は10月4日です。皆々様のご参加をお待ち申し上げます。


おつかれさまでした。