●平成24年10月7日 8時39分 気仙沼着。
午前
Sさんの車で早馬神社へ。
早馬神社(http://hayama.jinja.jp)は、宿浦港のすぐ近くの高台にあり、津波の被害を受けながらも神社に避難した人たちは皆さんご無事だったという神社です。
7日当日は早馬神社の1年に1回の例大祭の日でした。
石段を上がったところではリンゴや牡蠣・帆立などが売られており、地元の方達で賑わっていました。
いかにも地域に密着した神社らしく、集まっている方達は普段着のままでお祭りを楽しんでいる様子でした。
本殿の前では小学生たち20名くらいによる太鼓の打囃子があり、御神輿も町に繰り出しました。
津波で流された町には草が生えていて、そこに家があったことは、教えられて初めて気が付くような状態です。
沿道では地元の方達が三々五々並んで御神輿をお迎えし、御賽銭のようなものを御神輿の人に渡す人や、目をギュッとつむって一生懸命合掌する小さなお子さんの姿も見られました。
早馬山(山頂には早馬神社の本殿があります)の麓でのご祈祷の後、御神輿は仮設住宅にも寄りました。
その後、港に戻り、御神輿と宮司さん・担ぎ手の方達と2艘の漁船に分かれて乗り、唐桑半島先まで出ました。
洋上では、津波の被害の大きかった2か所で宮司さんがご祈祷なさいました。
ご祈祷中、船内ではビールやお酒が振る舞われ、大音響で演歌を流したりして、漁師さんらしい明るい雰囲気が盛り上がっていました。御神輿は再び漁港に戻り、御神輿の禊をして、祭典は終了しました。
昨年の例大祭の時、御神輿を出しても、家も無く人もまばらになった町を神輿が練り歩いても、と御神輿を出すことを迷われたそうです。
今回海に出た漁船は6艘。かつては30艘もの漁船が晴れがましく御神輿の漁船に御供していたとお聞きしました。宮司様や皆さまのお気持ちを想像すると胸が締め付けられました。
午後
岩手県陸前高田市へ。陸前高田市は、宮城県気仙沼市から車で20分くらいのところにあります。
今回の大震災では、東北地方を中心に太平洋側の街が甚大な被害を受けたことをSさんから事前に教えて頂いていました。 以下、Sさんのメール(平成24年9月30日付)を転載します。
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今回、是非とも一二三先生を陸前高田市にご案内したいと思ったのには理由があります。
今回の大震災では、東北地方を中心に太平洋側の街が甚大な被害を受けましたが、中でも陸前高田市は、18メートルの津波により市内の中心部全てが壊滅的な被害を受け、市役所、県立病院、消防署、警察等の重要な機関の全てを失い、市の人口の約8%もの方々が死亡又は行方不明になるという深刻な被害を被ってしまったためです(当時の人口は約23,000人でしたが、現時点で約1,800人の方々が死亡又は行方不明となっています)。
また、市役所も被災し、市役所の職員の約3分の1にあたる110名前後が死亡又は行方不明となりましたが、これらの数字(総数やパーセンテージ)は他の被災地と比べても突出したものとなっているためです。
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陸前高田市は広々として何もなく、雑草が生い茂った状況でした。
幾つか4~5階建ての建物も残っていましたが、3階くらいまでは窓ガラスも割れ、壁も壊れたままの状態です。
広い原っぱのところどころに数台のクレーン車と瓦礫を積み上げた小山があり、そこにも草が生えていました。
震災前には店やレジャー施設などが林立した繁華街があったとは想像もできません。
職員の3分の1の方が犠牲になられた市役所と、向かいの市民会館はまだそのまま残されておりました。
市役所の建物の入り口奥には、元は何であったかもわからないものがたくさん津波で流れ込んだままでした。
その建物の前でお線香を上げ、Sさんが用意してくださった花束を手向けました。
午後3時半過ぎに、仮設住宅に住んでいらっしゃるOさん宅を訪問させて頂きました。
Oさんは、Sさんの大学時代の同級生のお母様です。
Oさんも津波により自宅を流され、ご自身も津波で流されかけましたが奇跡的に一命を取りとめられました。
もう70過ぎでいらっしゃいますが、若々しく溌剌としていらして、とてもそのようなお歳には見えませんでした。
Oさんに震災後のことをいろいろ聞かせて頂きました。
Oさんは、全ての薬局が流され、薬剤師もほとんどいなくなってしまった陸前高田市に、震災後の7月20日、最初に薬局を開店させるためご尽力された方です。
また、ご自身の土地約150平方メートルを被災した方達に無償で貸し出し、そこに野菜や花を植えることで被災者たちの交流を深めることもされています。
その他、英語の先生のご協力を得て英会話教室をを開くにあたってプレハブの建物と土地を無償で貸されました。
海外の若い人たちをOさんの仮設住宅に招いたり、訪問リハビリテーションセンターを開設するにあたり土地を無償で貸すなど、本当に旺盛に活動されています。
被災された方とは思えないほどのご活躍ぶりです。
その原動力となっているのは、震災の1年半前に亡くされた息子さんだと語ってくださいました。
息子さんはとても優秀で職場の同僚からの信望も厚く、後輩からも大変慕われ、親孝行のとても優しい方だったそうです。
その息子さんがOさんの全ての原点だとお話してくださいました。
あの世に帰った時に、息子に自慢してやりたい、頑張ってきたよと、胸を張って、威張って言ってやりたい。
その思いが全ての原動力になっているのでしょう。気丈なOさんも、息子さんの死を語られるときには涙を見せられました。
「(陸前高田市で犠牲になられた)2000人分の命を生きる、泣き寝入りはしない」。ご自分に言い聞かせるかのような力強い口調が今も胸に残っています。
大切なものを全て失ったときに、人間は逆にこんなにまで強くなれるのか、と、Oさんのお話に深い感銘を受けました。
午後7時半ごろOさん宅をお暇し、Sさんの車で一ノ関駅まで送っていただきました。
今日1日お会いした方達のことを思い、気持の昂ぶったまま床についた夜でした。