気仙沼の報告 その20

  平成25年9月23日

●平成25年9月23日 8時過ぎ 気仙沼発。
今日は大船渡市、釜石市を回ります。
8時にホテルに迎えに来てくれたS.Tさんの車に乗って出発です。

◎大船渡市三陸町 仮設住宅
 9時少し前に、仮設住宅に到着。
 9時15分からのラジオ体操に参加します。参加者は住民20名弱でしょうか。
 ラジオ体操第2は皆さんの動きを真似てついていきます。

 終わってから、M.Kさんのお宅へ。M.Kさんは7月にもお邪魔させて頂きました。
 85歳ですがとても若々しく素敵な方で、またお会いしたいと思っていた方です。
 今朝は5時ごろに起きられて、「がんづき」というお菓子を焼いてくださっていました。
仮設では周りに音が聞こえないよう、常に気を遣われるそうです。M.Kさんも3時ごろには目が覚めていたけれど、起きると音がするので遠慮されて5時まで横になっていらしたとのこと。
 1人住まいの人の仮設住宅は4畳半一間に台所とバス・トイレがついただけの、とても狭いものです。
 寝ても覚めても同じ部屋で、しかも狭いのだから、息が詰まるような生活なのではないでしょうか。そのうえ、ご近所に音で迷惑をかけないようにと常に気を遣う生活。
 それが2年半以上も続いているのだから、住民の方たちも本当に限界に近いと思います。
 最近は仮設を出て行かれる方も増えたので、空室になった広いところへの引っ越しが流行っているそうです。
 M.Kさんも初めは息子さんと、引っ越すための家や土地を探して歩かれたそうです。でも、いろいろ条件が合わずに諦められたとのこと。
 高台移転は早くても3年後くらいだそうです。住民の多くはかなりのご高齢です。
 仮に移転ができたとしても、見知らぬ土地で、近所は見知らぬ人ばかりのところに引っ越すより、今のまま仮設にいたほうがいいと考えていらっしゃる方も多いそうです。

 皆さん毎日、お友達のところで半日くらいおしゃべりなどをして過ごされるそうです。
 この仮設はもともと同じ地域の住民だった方たちが住んでいるので、皆さん顔見知り。だから安心感・親近感があるのでしょう。仮設を出られても、こちらの生活のほうがよかったと戻りたがっていらっしゃる方もおられるそうです。
 M.Kさんとおしゃべりしながら、窓に目を向けてみました。
部屋の窓からは、レースのカーテン越しに向かいの仮設の窓が見えます。さらに見上げると、空が僅かに見えました。
この僅かな空を見上げて過ごす一日の 孤独感、寂寥感、空虚感。
埋めることのできない心の穴に、過去も 未来も 現在も、全てが吸い込まれていくような ことばにならない漠とした不安を想像せずにいられません。

 震災後の生活に、「終わり」というものはあるのでしょうか。
あるとしたら、それはいつ、どのような形で、訪れるものなのでしょうか。

◎釜石市 仮設のラーメン屋さん
 お昼は釜石駅近くの仮設のラーメン屋さん「釜石ラーメン こんとき」さんへ。
 明るく陽気なご主人でした。
 仮設商店街のお店はどこも、ご主人や働いていらっしゃる方々皆さん、本当に明るく気さくで楽しそうに一生懸命働いていらっしゃいます。こちらのほうが逆に励まされているようです。
 ラーメンもおいしかったです!ご馳走様でした。

◎釜石市 鵜住居(うのすまい)地区防災センター
 14時過ぎ、鵜住居(うのすまい)地区防災センターに到着しました。
 海からは2~300メートルくらい奥になるでしょうか。そう遠くはないところにあります。
 震災当時、2階建ての防災センターに逃げ込んだのは200人以上。そして助かったのは30人前後。大勢の方が津波の犠牲になられました。
 このセンターは、震災遺構としては珍しく、中に立ち入ることができます。天井、壁、窓、床。あらゆるところに津波の爪跡が残っています。天井や壁は、中の鉄骨がむき出しになり、窓ガラスは全て割れています。
 この防災センターも取り壊しが決まっているそうです。建物内の慰霊場所の壁に、ご遺族の思いを綴った(つづった)紙が貼ってありました。それは、遺構を取り壊さないでほしいという切なる訴えでした。

 震災を思い出すから早く取り壊してほしいというご遺族もいらっしゃることでしょう。
 しかし、一方で、残してほしいと願うご遺族もいらっしゃると思います。
 仮に私が遺族であったなら、愛する人が最期を遂げたその場所で、今は亡き愛する人の最期の時に思いを馳せ(はせ)、その御魂に語りかけたいと思うでしょう。
 そこは、愛する人が「最期」を迎えた神聖な場所であり、愛する人の「最期の時」を共にできる尊い場所だと思うのです。
 遺構がなくなってしまったら、愛する人と自分とをつなぐ縁(よすが)さえも永久に失われてしまう。
そんなご遺族のお気持ちを想うと、やるせなく、いたたまれなくなってきます。
また、この遺構を残すことで、地震・津波の威力や凄まじさを、後世の人に生々しく伝えることができます。
 写真や映像だけでは、震災の恐ろしさは絶対に伝えられません。もっと長期的な視点から、遺構の持つ意味を考えていくことが重要なのではないでしょうか。

◎釜石市 大槌町役場
 大槌町も、小さいながらも震災の被害の大きかった町です。2階建ての建物が残されています。3分の1の職員の方が亡くなりました。
震災後、他府県からも大勢の職員さんが応援に駆け付けて来られたそうです。それでも復興までの道のりはまだまだ厳しい状況です。
 大槌町町役場の近くで慰霊をさせて頂きました。

大槌町を後にして、遠野を通り、花巻経由で一ノ関に向かいます。
のどかな夕日が空を優しく染め、地上の田畑や野原は徐々に陰影を深めていきます。

今回もいろいろな出会いと再会がありました。
被災したことに負けないで、今を一生懸命に生きていらっしゃる方たち。
そうした方たちに、改めて感謝と尊敬の気持ちでいっぱいです。
2日間の予定を綿密に調整してくださったS.Tさん、ありがとうございました。