気仙沼の報告(平成28年2月26・27・28日)
◎平成28年2月26日(金)
●気仙沼市 「福よし」
半年ぶりの気仙沼です。報告は書きませんでしたが、昨年の9月にも気仙沼を訪問しました。
一ノ関から大船渡線に乗り、14時過ぎに気仙沼駅に到着。今回は大学院生のH.Yさんと、夫、ワンコ2匹連れです。まずはワンコをホテルに預けに行きます。その後、宿泊先のビジネスホテルにチェックインし、しばし休憩。
夕飯は18時から、「福よし」さんへ。
「福よし」さんも震災でお店が全壊したそうですが、今は再建して営業されています。震災前から有名なお店で、『美味しんぼ』という漫画で焼き魚を紹介されたほどです。予約しないと入れないこともある人気店です。
お任せコースを注文しました。とても新鮮なお刺身、イカ腑を陶板の上で焼いたもの、焼き魚、次々運ばれる魚介類は、まさに海の町という感じです。
再建するか否かはずいぶん迷われたそうです。しかし、せっかく再建されたにもかかわらず、復興計画で整備する道路に1.5メートルお店がひっかかるということで、取り壊さなければいけないとか。
ひどい話です。復興計画の前に再建されているのであれば、今ある建造物を優先して道路を通すべきではないでしょうか。
カウンター内のご主人も、お店の中は繁盛しているのに表情は曇りがちです。住んでいる人たちの希望や意志が反映されない復興計画の一端が垣間見えます。復興という名の下に渦巻く様々な矛盾や不条理。
声にならない人々の呻きが聞こえてくるようです。
◎平成28年2月27日(土)
●気仙沼市 早馬神社さん
8時半過ぎ、早馬神社さんに参拝しました。
震災から5年目を迎える今年。神社でもいろいろな行事を企画されているそうです。
復興の先は見通せなくとも、信じて前に進むしかない。
5年経っても殆ど何も変わらない現状に愚痴をこぼすことなく、淡々と地域のためにご尽力される梶原忠利宮司さんと息子の梶原壮市禰宜さんのお話を伺っていると、こちらの心も粛然としてきます。
津波を耐えた参道の椿が、朝日の淡い光を受けて蕾をのぞかせていました。
●陸前高田市 気仙大工左官伝承館
10時半に気仙大工左官伝承館に到着しました。ひな祭りの菱餅を作るために糯(もち)米(ごめ)を蒸しているところでした。
いい香りです。味見をさせて頂きました。小豆抜きのお赤飯みたいな味がします。
【高田人形】
壁際のガラスケースには高田人形が20体ほど陳列してあります。高田人形というのは高さ15センチくらいの粘土製の人形です。粘土を円錐形に固めたものに、赤い着物が彩色され梅の模様が描かれています。頭は黒く塗られただけで、顔もとても素朴です。何より驚いたのは、彩色が人形の前面だけということです。後ろ半分は何も描かれていません。赤い染料が非常に貴重であったからだそうです。
戦前までは作られていましたが、その後は作られておらず、残っていたものも多くは津波で流されてしまいました。粘土製ですが焼かれていないため、海水に溶けたり壊れてしまったのです。
人形を買ってもらうこともままならなかった貧しい時代。前面だけに顔や着物が施されたお人形を飾るひな祭り。女の子たちは、春の訪れとともにひな祭りを心待ちにしていたのでしょう。柔らかい陽射しの中で宝物のように人形を愛(いと)しむ少女と、その少女に注がれる家族の眼差し。
素朴な人形にまつわる家族の姿が、心に灯を灯してくれるようでした。
【被災者支援の日々の中で】
語り部の武藏裕子さんは震災から2週間、伝承館に避難してきた地域の方たちのために、ご自宅にあった食べ物で炊き出しをしたり、伝承館内で暖を取るための囲炉裏の火を、一晩中寝ずに守ったりと尽力されました。
ご家族とご自宅は無事であり、それがひとつの活力源となったのでしょう。
かといって、決して生活が楽であった訳ではありません。水道・電気・ガス全て止まっているのですから。
お風呂にも1か月入れませんでした。自衛隊の方たちが設営してくれた臨時のお風呂にも、周囲の視線に気兼ねして入りに行くことはできませんでした。
心無い一言に打ちのめされたこともありました。
「武蔵さんはいいわよね。家族も無事だったし、家も流されなかったんだから」
落ち込んでいる友達を励ますつもりで掛けた言葉が、相手の気持ちを逆なでしてしまったことも。深まっていく心の溝…。
避難してきた人たちの生活を無我夢中で支えてきた武蔵さんですが、それもひと段落し、緊張も少し緩んできた頃のこと。もしかしたら自分も夫を亡くしていたかもしれないという恐怖に襲われます。夜中、隣に眠るご主人の足をさすって「本当に生きているんだよね? 大丈夫なんだよね?」と、大泣きしてしまったこともたびたびあったそうです。
助かった人たちも、決して傷つかなかったわけではありません。
もしかしたら、自分も、家族も、死んでいたかもしれない…。
目の前で多くの人が津波に巻き込まれて行くのを目の当たりにし、生と死との狭間で九死に一生を得た体験は、今でも心を蝕(むしば)み、痛めつけるのです。
助かってよかった、運がよかった、などといって、安堵し喜ぶことなど、到底できないのです。
被災者だからこそ語れるお話に、思わず涙を誘われました。
家族が無事でいることの尊さを改めて教えてもらいました。
ありがとうございました。
●気仙沼市 階上(はしかみ)公民館
13時半過ぎ、階上公民館へ。
公民館で管理人をされているK.Kさん。お元気そうでよかったです。今回も船乗り時代のお話を伺いました。
●気仙沼市 仮設商店街
夜は仮設商店街 復興小町「里」さんへ。
気仙沼の海の幸を堪能しました。ご馳走様でした。
◎平成28年2月28日(日)
●石巻市 大川小学校
久しぶりに大川小学校を訪れました。
折れたコンクリートの柱、むき出しの鉄骨、ぶち抜かれた壁…。
残された校舎を見ていると、津波の破壊力にただただ圧倒され、声も出ません。
校庭からすぐの裏山には、津波が到達した地点を示す白い線が引かれています。「あそこまで登ってさえいれば…。」
ご遺族の無念の想いが胸に迫ります。
慰霊に訪れる方たちの姿が途絶えることはありませんでした。
●南三陸町 防災庁舎
南三陸町は嵩上げが進み、もはや防災庁舎の高さを超えてしまいそうです。以前あった町の面影は、全く残っていません。土のピラミッドみたいな間を縫うように車は通り抜けます。数台、観光バスも乗り付けて来ています。
防災庁舎の赤い鉄骨が、今でも津波の凄まじさを見せつけています。
もうすぐ5年…。
時は止まっているのか、進んでいるのか。わからなくなる瞬間です。
●陸前高田市 ケアマネージャー O.Sさん
市内で介護保険制度のケアマネージャーをしているO.Sさん宅へ。昨年1月にお邪魔して以来1年ぶりです。
震災でご主人を亡くされてからもうすぐ5年。少しずつ気持ちを整理されてきたのでしょうか。ご主人はとても仕事熱心で、人情の厚い方であったことが、話の端々から伺えます。人望があり、1週間のうち3日くらいは仕事の同僚たちがお宅に遊びにいらしていたそうです。
「玄関に赤提灯でも出しましょうかって言ったこともあるのよ」
歌がとても上手だったと懐かしそうに眼を細められます。生前のご主人のお話をされるとき、表情が和らぎます。
被災してもご自宅が無事であったために、いろいろ誤解も受けられました。世間の人たちのきつい風当たりに苦しみ、誰にも言えない辛さを呑み込んでこられた5年間。
本棚に『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)という本がありました。震災関係の本の中で、唯一読んでみた本だそうです。
「大川小学校で亡くなった先生たちのご遺族も、言いたいことがあっても言えない。その気持ちがよくわかるの」
ご主人を亡くされた悲しみも、その悲しみを理解してもらえないもどかしさも、反論できない悔しさも、いつになれば癒されるのでしょうか。
いいえ、癒されることはないのかもしれません。
癒される筈がないのです。
身を切られるほどの辛い経験を、忘れられる訳がありません。
屈託のない笑顔が戻ることはないのです。
少しでも微笑む時間が長くなっていかれますように。
そう祈らずにはいられません。
今回も岩手県職員S.Tさんには、大変お世話になりました。
いろいろな方のお話を聞かせて頂くことで、様々に考えさせられました。
何のお役にも立てないのはわかっています。
被災地から心を離すことのないように、また訪問させて頂きます。
どうもありがとうございました。